No.145 敦賀に降り立ったユダヤ人の軌跡
2007(平成19)年8月号掲載
福井は日本のドマン中「日本のヘソ福井」第145回は「敦賀に降り立ったユダヤ人の軌跡」の話です。
第2次世界大戦当時、リトアニアの外交官・杉原千畝副領事館が発給した“命のビザ”で多数のユダヤ人が救われた話は大変有名です。
しかし、“命のビザ”を受け取ったユダヤ人が、その後どのように逃れたかはあまり知られていません。
過日「扉開きしのちー敦賀に降り立ったユダヤ人の軌跡―」とのテレビ番組が放映され、“命のビザ”を手にした6,000 人のユダヤ人が、
最初に上陸した土地は福井県の敦賀であることが紹介されていました。
当時ポーランドに住んでいたユダヤ人は、迫害を逃れ隣国のリトアニア国に入国していました。
しかし、ヨーロッパは全て閉ざされていたため、たった一つの逃げ道は日本を通過してどこかの国へ逃げるしかない状況でした。
日本領事館へ連日押し寄せるユダヤ人の姿を見て、1940年7月29日に杉原は決断して日本通過ビザを発給したのでした。
ビザを手にしたユダヤ人は、モスクワからシベリア鉄道で日本へ。
しかし汽車がスイッチバックで止まる度に「シベリアに送られるのではないか」との恐怖に怯えていました。
12日後、ウラジオストックに到着。
日本の旅行会社JTBが手配した“天草丸”と“はるぴん丸”で日本を目指しで冬の日本海を渡ったのでした。
番組の中で、当時を知る女性が敦賀に降りた印象を「雪が山の上にあった。悪夢から覚めた楽園のようであった」と語っていました。
敦賀の人々は、ユダヤ人たちに無料で銭湯を開放したり、果物を渡したり、きわめて友好的に接しました。
ユダヤ人たちは、まさに天国のような日本で人間としての尊厳を取り戻し、その後、アメリカやオーストラリアなどに渡っていきました。