歴史的価値ある工作機械・ベストテクニカル賞で「名機」として 顕彰



 今から40余年前のマツウラが、身の程も知らずに研究開発した、電気制御による自動フライス盤(プログラム制御方式:PC機)が、 第5回歴史的価値のある工作機械の顕彰・ベストテクニカル賞に選ばれ「名機」として顕彰されたのが、 この春、5月29日開催の日本工業大学学友会館の表彰式典でした(Matsuura NEWS!平成15年7月号で既報)。

 この研究開発の原点が、今日のマツウラの経営理念として脈々と生き続けています。
マツウラの先人達が歩んできた無謀ともいえる「物作り」への情熱と、その時代背景はどのようなものだったのでしょうか。

 名機―として顕彰された「プログラム制御自動立フライス盤・SB-1型」の開発研究の経緯を、 今一度、探っていきたく思います。


顕彰盾を受けるマツウラ松浦社長



マツウラのPC機SB-1型


他人のやらないことをやる、マツウラ!作業者1人で多台持ちが、将来かならず来る

 昭和30(1955)年代から40(1965)年代は、わが日本の機械産業界には、無人化・省力化などの言葉が使われはじめつつありました。
しかし、いまだNC化の本格的な省力化や省人化を目指した「機電一体化」の技術革新は、 理論から一歩現場で注目されつつあるような「夜明け前」。

 油圧や空圧などを応用した古典的なオートメーションまがいのものが主流でした。
特に昭和30〜35年当時は、NC機などは実際に工場に設備されることなど、予想だに出来ず、 研究が始まり二・三歩進んだ―そんな時代でした。
しかし、戦後の産業発展は目ざましく、技術革新も新しいものへの需要が多くなり、 また国内における政治や経済も「所得倍増政策」による、大きな時代の流れが奔流となって産業界も、 そして工作機械業界も刺激されつつありました。

 こんな時代環境の下で、当時小型の立て形汎用フライス盤(0番型および1/2番型)の小粒なメーカーとして、 福井県では初めて全国区に躍り出ていたマツウラが、マツウラ独自による電気制御技術を応用した「PC機」の研究開発に取り組みました。

 取り組んだマツウラは、「他人がやらないことをやる」ことを一生の人生哲学にしてきた、 創業者・松浦敏男(故人・松浦正則社長の実父)からの思い入れからでした。
「将来は必ず人手不足になる。 今は一人一台の作業者でやっているが、一人で二台、三台、いや五台、十台の作業をやるような設備が必ず要求される。 これを、今からやらねばならない」という究極の思いから「電気の制御で何とか機械を動かしたい」―。

 昭和34年秋から35年にかけ、当時マツウラは45名余りの従業員ながらも、「独自の技術」というよりも、 創業者の「何としてもやり抜くんだ」という堅固な意志と、全従業員の熱意だけが、 たよりの研究開発と試作からそれは始まりました。
試行錯誤を繰り返しながらも試作機「AS-60型」が完成したのが、昭和35年9月。
研究開発から約1年たった時でした。

 年商5〜6000万円足らずのマツウラという、吹けば飛ぶような零細工作機械メーカーが、とにかく独自で試作完成させました。
試作にかけた費用は、1台の直接費用だけ(材料費、消耗費)で950万円、人件費、外注費、研究諸費など間接費用を入れれば、2500万円近く。
以後、この研究はミクロマンというブランド(登録商標)として、精力的に14シリーズが研究開発しラインナップされましたが、 このラインナップ製品試作研究でしめて研究費が何と9500万円近くの支出という、気狂いざた。

 マツウラの周囲からは、その成否すらわからないものへの過大先行研究投資に危ぶみ、 当時の社長松浦敏男に「こんな大バクチは直ちに止めろ」と忠告する人々も多くありました。
しかし松浦敏男社長は「必ず、やがて電気制御技術による画期的な自動機が必要な時代がくる」ことを予感し、 この信念と情熱は変わらず研究を続行。

 その結果、プロトマシンを完成させた一年後の昭和36年秋には、前後・左右・上下の3方向に2/100mm以内に精密停止ができる 「自動定寸プログラム制御3方向複合サイクル立フライス盤」が完成。
市販が開始され、この自動フライス盤に登録商標ブランドの「ミクロマン」と命名し、 国産初の「現場作業者が一人で多数台持ちの運転操作が可能」とした、最大特徴をもち、 国内の大手や中堅のユーザーから強い関心と注目が集まりました。

試作第1号機:AS-60型 左から村上碩哉・東京工業大学教授、マツウラ松浦社長、
大川陽康・日本工業大学理事長、谷口修・マツウラ特別顧問


全国ブランド「ミクロマン」で躍り出たPC機!―日本で初の電気制御自動フライス盤―

 この登録商標されたミクロマンシリーズは、NC機時代の先駆けとなり、またその頃、欧州の工作機械業界では「プロコン全盛期」でもありました。
1970年9月に開催されたハノーバー工作機械見本市では、NC機とPC機はほぼ同数の出品台数でありましたが、 NC機は今だ実用機としては本格的なものとはいえず、PC機が一歩リードしているほどでした。

 ただマツウラが日本で最初に、PC機を試作開発したきっかけは、このような欧州における工作機械業界の情報が先にあったからではなく、 あくまで創業者の松浦敏男の「他人のものマネはしない」 「将来は必ず人手不足になる。そのための一人多台作業が可能な自動機械を電気制御する」ことに、 こだわり続けた「ひらめき」であったことは、特筆すべきことです。
その証拠に日本の自動工作機械のPC機は殆どがマツウラの独占市場でした。

 このようなことは、革新的な技術の世界でしばしば起る時代の偶然性であったと考えられます。

 このミクロマンによって、日本の精密機械工業であった当時の、高級カメラや時計、電動工具、ミシン、鉄砲などの大手や中堅ユーザーが、 競って省力化、省人化用の設備として設備。
従来の生産設備に比較して、生産性が10〜20倍と飛躍的に向上し、高精密な機械加工が女性や素人の作業員で可能となるなど、 革新的な機械の出現で、マツウラは「電気制御・電気技術のマツウラの工作機械」として、 全国ブランドに躍り出ることになりました。

 以下、次号で別な角度から、くわしく歴史と技術をヒモといていきます。

日本工業大学工業博物館内に展示されている、
マツウラ製プログラム制御自動立フライス盤ミクロマンS-2型
原田 昭・全国工業高等学校長協会理事長(中央)と
神馬 敬・日本工業大学学長(右)



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