誌上再録:FBC福井放送「人間ネットワーク」 2003(平成15)年4月13日放送(第688回)

自由な研究風土が「ノーベル賞」を生んだ!
なにごとも、やるなら死に物狂いでやらねば!


人間ネットワーク


 日本で、いや世界で一番注目され輝いている株式会社島津製作所(年商1,422億円、資本金168億円)は、 京都市中京区に本社を置く、計測、医用、航空・産業機器など広範な事業を展開中の、大手精密機器メーカーです。
その島津製作所は、昨年秋にノーベル化学賞を受賞された、田中耕一さんの突然の出現で、たちまち全世界から注目され脚光を浴びています。

 その島津製作所の社長・矢嶋英敏氏(平成15年6月に同社の会長に昇任)と昵懇で、ご縁の深い松浦社長との対談が、京都の同社本社で行われました。
その対談風景が収録され4月13日、FBC福井放送の定時番組「人間ネットワーク」で放映されました。

 本誌では、放映された同番組の要旨をダイジェストし、FBC福井放送のご厚意により、誌上再録しました。
このテレビ番組「人間ネットワーク」は、平成元(1989)年10月からFBC福井放送の自主制作番組で始められ、 放映開始いらいオピニオン性の高い内容が好評の、長寿トーク番組として好評を得ています。

 マツウラは、平成7(1995)年秋から番組の提供スポンサーに加わるなど、積極的に支援しています。



松浦正則社長矢嶋英敏社長

松浦: おはようございます。
今、日本でも世界でも一番注目を浴びている島津製作所の矢嶋社長にお目にかかることができ、大変光栄です。
日本がある意味で閉塞感の中、お金を持っていながら何をしていいのかわからず、うろうろしている。
そんな中で、ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんにスポットが浴びせられ、その田中さんを育てられた社長さんにお会いでき何よりです。
私は、あの田中さんの会見を聞いて、社長さんがどのような気持ちかという思いで、お祝いのお手紙をさしあげたのですが。


すべてに脚光を浴びたノーベル賞受賞の田中耕一さん

矢嶋: 当時はたまたま、アメリカで医療関係の代理店社長を集めた会議があり、 また、アメリカ法人の代表者の交代もあって、その紹介もかねてアメリカに行っていました。
ロスについたその晩、いきなり朝の2時頃に電話がかかってきまして、起こされました。
田中のノーベル化学賞の受賞が決まったという、大変な朗報を受けたのです。
日本では専務クラスがすべて出払っており、夜の6時頃に受賞の連絡を受け、9時頃にマスコミの方々が詰め掛けて、大童でした。
結局、皆がうまく対応してくれたので安心したのですが、翌日の新聞を見ると、「島津製作所大慌て」と出ている。
ロスの記者たちがなぜ慌てているのですかと聞くので、あなたたちは慌てないのかと言った覚えがあります。
それくらい前触れは全然ありませんでした。

松浦: この間、上海に行った折、ある人が「中国の首脳陣はノーベル受賞者を同時に二人も出した日本のポテンシャルの高さにまた負けたといっている。 それで、5年以内にノーベル賞受賞者を出すよう大号令がかかって大変なんだ」と言っていました。

 今回は、前触れもうわさもなかったわけですから、慌てられたというのもよくわかります。

矢嶋: 結果的に見れば、日本の産業界の人、それもドクターでない人が初めて受賞したと記録になっていますが、 アメリカやヨーロッパで見れば全然例がないわけではないんですね。
江崎玲於奈さんなどもIBMの社員として受賞されたし、ドイツの製薬会社にも2名います。デュポンもそうです。
そういう意味では、産業界からの受賞というのは珍しいが、まったくないわけではないのです。
ただ、日本では初めてで、彼が非常に若く、主任で作業服で会見に出て、携帯電話に電話がかかり、 それが奥さんだった、人柄の良さ、そういったものすべてが脚光をあびたということで、非常に喜ばしいことでした。

松浦: 世の中で今オリジナリティ、日本独自のものと掛け声はあるのですか、なかなか開発研究はうまくいきません。
そのことで、御社が創業以来もってこられた開発研究の基盤といいますか、社長様の思いをご披露ねがえませんか。




科学技術で社会に貢献する…島津の社是

矢嶋: 我が社には科学技術で社会に貢献するという社是があり、私も入社して25年経つのですが、 これまで教えられた「科学を大事にしろ」ということがずっとつながっています。
いろいろな一般消費財で大きな功績を立てられたり、事業化された方はたくさんいますが、 我々は産業の米というか、いろいろな産業で役に立てる、計測関係、分析関係、医療機器といったものを中心にやることになっています。
それからもう少し遡るとすれば、明治維新で天皇陛下が東京に住まわれることになり、 本来なら東京に行くはずのドイツのワトソン博士が、京都の島津源蔵の営んでいた仏具屋の近くにできた舎密局にこられ、 そこで当社創業者の島津源蔵が師事して、レントゲンなどいろいろなことを教えられたそうです。
そういうことに興味のあった源蔵は特許などを独り占めせず、科学を日本に広め、技術の拡大をはかろうと教育に力をいれていたそうです。
それが、いろいろ聞いてみると、京都在住のいろんな会社の方も、昔は島津さんにお世話になったんですといわれ、 教育に力を入れたということが源蔵さんのすばらしい所ですね。

松浦: なるほど、そういう生い立ちだったのですか。
御社は今でも産業のバースとなる地味な事業をされていますが、開発研究費にどれくらい支出していますか。

矢嶋: 売上の8%、額にして年120億円ぐらいですが、製薬会社さんなどは15%ほどのところもあります。
ただ、製薬会社さんのように、発明をしてから結果がでるまで10年もかかるようなところを除いた、 私どもと同業の方と比べれば比率は高いと思います。

松浦: たとえば、産業基盤のような10年以上先を見越したようなものと、2、3年先の目先のものとの振り分けはどうなっているのですか。

矢嶋: 私どもは、研究所で行うシーズとなる研究に30%、事業化に関するものを70%というように分配しています。

松浦: それでは、人材育成の面も含めて、シーズとなる研究でどれくらい自由度をもたせ、どれくらい集約させるのでしょうか。

矢嶋: いろんな場所でいろいろな人にヒアリングをしまして、その結果として、光とX線と画像処理の3つに今後注力し、 製品化しソフトウェアを出していくことにしています。
これはある意味トップダウンで決めて、その中で、具体的なことはある程度自由にやらせています。
開発研究費を潤沢に与えるとか、逆に絞ったほうが技術の方はがんばるとか、いろんな意見がありますが、 私どもでは、先ほど申し上げたように約120億円の30%を3つから4つの研究所に割り当て、 それをどう使うかは技術者に任せています。

松浦: 中国のある人が、「日本は層が厚い。一般の企業の人でもノーベル賞をもらう人がいる」といっていたのですが、 田中さんとそのグループについて、なにか特長をお聞かせください。

矢嶋: チームワークが非常によかったと、後から聞いて思いました。
電源の開発など、何か一つかけても田中の研究がうまくいかなかったのと、田中自身の観察眼が人並みはずれてよかったと思います。
ただ、島津の技術者が大なり小なり田中並の観察眼や技術力を持っているかというとそれは別の問題ですが(笑)。



京都の島津から世界の島津へ…しかし決して傲るな!

松浦: 田中さんが作業服で会見に出られ、朴訥と話されたのを見ると、人柄がよく出ておられて皆さんが好感をもたれたと思います。
ノーベル賞を受けた後の会社は、どのようになったのでしょうか。

矢嶋: 今私が盛んに言っていることが二つあります。
一つは、ノーベル賞は田中個人に与えられたもので、決して会社に与えられたものではないから、その原点を踏み外してはいけない。
もう一つは、「京都の島津」から「日本の島津」を飛び越えて「世界の島津」といわれるようになったが、 それにふさわしい行動をとり、決して傲ってはいけないということです。
この二点を強く戒めています。

松浦: 今まで、我々中小企業を含めて、従来のキャッチアップ型、つまり欧米などよいモデルを取り入れるというスタイルで日本の産業を伸ばしてきました。
しかし今や世界はひとつ、真似たものは真似され、自分達で切り開いた独自のものも、どんどん海外、 特に中国へ持ち出されるということが止まらない。
この状況で、日本のもの作りはどんなところで生きるのか、先達としてご意見いただけませんか。

矢嶋: 月並みですが、日本には原材料がなく、鉄鉱石でも何でも輸入しなければならず、 貿易立国として生きていくのは宿命だと思います。
ということは、付加価値をつけねばならない。
付加価値とは、先ほど申したように開発研究で「3割は無から有をつくり、7割はお客様の望んでいることを実現する」ことです。
一言でいえば、マーケティングになるでしょうか。
日本人はマーケティングという考え方が薄くて、よいものを作れば売れる、買わないほうがだめなんだ、とう考え方が強かった。
しかし、ニーズが多様化し、お客様が欲しいという物を作り、付加価値をたかめるといったところが、 設計のノウハウになってくるのでしょうね。
だから、日本は高付加価値の輸出振興型の国家であるべきだと思います。
安いものを買ってくればいいというような刹那的な運営をしていくと、日本はだんだんしぼんでいくでしょうね。
実際のもの作りを考えると、人件費が1/10や1/20といった国とは格差があるわけで、 その国に同じ技術力をもたれたらかなわないのは自明ですから、高付加価値のノウハウが大事だと思います。




何ごともやるなら命懸け死ぬ気でやらねば

松浦: 今、国を挙げて産官学のプロジェクトをたくさん立ち上げていますが、これについてお考えはありませんか。

矢嶋: YS11などは産官学の走りだったと思うのですが、儲からないからやめるのだったら初めからやらなければよいのにと思います。
どうせやるなら、死ぬ気でやらなければならないと。
学校が考えて、もの作りは産がし、お金は国が出すのでは、うまくいかなかった時に責任のなすりあいになってしまいます。
それではだめで、何よりもやるなら死ぬ気でやる、心構えが大事だと思います。

松浦: 産官学のどこでもいいから燃える核というか、核になって命懸けでひっぱってくれる人が必要なのですね。

矢嶋: 人間社会ですから、お互いを信じあい、命懸けでやりぬくという気概がなければ、何をやってもだめでしょう。

松浦: そういう気概を含めて、今の若い学生さんを見て、なにか気づいたことがあれば教えてください。

矢嶋: 社会の変革が急速に進んでおり、私たちの世界は正しかった、今の人たちは間違っているとよく言われますが、 そうではなくて、今の若い人たちが燃えることのできる環境作りを、私たちがしなければならないと思います。
成功体験だけではなくて、失敗してもその中から何かを見つけるという環境づくりです。

松浦: 今の日本は、成功体験に浸りきっていて、なかなか抜けきれないですものね。

矢嶋: それは目標がないからでしょう。目標がないと、うまくいかないと思います。
先ほどのトップダウンのように方向性を示すことと同じで、教育にも目標が必要でしょう。

松浦: 余りにも豊かになりすぎて、変な意味で余裕ができ、他の人に干渉したがらないのが行けないのでしょうか。

矢嶋: 昔はアルバイトだけで何とか食べていけたかもしれないし、今もフリーターはアルバイトだけで食べていける。
だけど、目的がありません。ただお金を稼ぐことだけが目的になって、そのお金を何に使うのかというと何となく好きに使う。
そうではなくて人生の目的を持たせるようにしなければと思います。

松浦: そうなると、基本的な教育まで遡らなければ。

矢嶋: 教育というと、やらされるという感じがしますから、いくつかの選択肢の中で好きな道を選べるというのが、いいのではないでしょうか。

松浦: 御社では若手を育てるという特別なプログラムがありますか。

矢嶋: 経営塾があって、社員の卵をいろいろな角度から教えていくというものですが、 一言でいうと経営者は我慢しなくてはいけません。
やらせて結果が出るまで我慢しなくてはいけません。
だんだん年をとるとせっかちになりすぐ結果がほしくなりますが、やっぱり我慢しなければならない。
私はそう思います。

松浦: 私どもの会社でも産官学のプロジェクトをやっているのですが、 10年前にシーズとなる開発をやらせた時は、なに遊ばせているんだと言われました。
しかし、5年前にレーザーの話が持ち上がり、外から評価されるようになると、中からの評価も変わってきました。

矢嶋: おっしゃる通りです。 一度に全部は無理でも、節目節目で誉めると、更なる飛躍につながりますから。



技術者に夢を持たせ、技術者は実現させる気概を

松浦: 田中さんは、主任でノーベル賞を受賞し、今はフェローとなって研究所を持っておられますが、 若い技術者に田中さんに続けという意味で、なにかございますか。

矢嶋: やはり、技術者の夢をつぶさないように管理者が十分に心得ることと、 夢を持った技術者が必ず実現するんだという気概を持つこと、この二つが調和したとき会社はうまくいくんだと思います。

松浦: 我々もいま新しい開発研究をしていますが、なぜそれを考えたかというと、 グローバル化の中で、資源のない日本にあるのは人間と自然だけ、その中で生きていくには、 世界にないモノを作るか、世界にない作り方をするしかないと思ったからです。

矢嶋: まったく、おっしゃる通りです。

松浦: それでは最後に、我々地方の中小企業も含めて、今後の日本のもの作りに一番大事なことを一言お願いします。

矢嶋: やはり、自信を持って頑張れということです。
それも、ただ頑張れというのではなくて、プロセスを議論し尽くして組み上げ、愚直に実行していくということです。

 口だけ言って実行しないとか、失敗すると他人のせいにするのは、一番まずい。
最近は汚職だとか失敗だとか、事業に失敗して株主に迷惑かけたとか、面白くないことがいっぱいありますが、 他人のせいにせず、夢をもって、それを実現させ実行する。
これが大事だと思います。

松浦: わかりました。この言葉を肝に銘じて進んでいきたいと思います。
ありがとうございました。




矢嶋英敏氏の横顔


昭和10(1935)年東京都生まれ
昭和34(1959)年慶応義塾大学文学部を卒業のあと、日本航空機製造株式会社に入社
昭和52(1977)年株式会社島津製作所に入社
平成 2(1990)年同社取締役に就任、常務取締役、専務取締役を経て
平成10(1998)年同社代表取締役社長
平成15(2003)年同社代表取締役会長に6月、就任し現在に至る。
現在、社団法人日本航空宇宙工業会副会長など公職などで活躍中。

※写真はいずれもFBC福井放送テレビの画面から



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